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2006年4月30日 (日)

スポーツボート

半年、前に進まないバイクをこぎ続けて、調子のいいときは最高負荷で1時間近くこげるようになりました。TVやDVDを見ながらの運動は、私に向いているようです。

それが、いよいよ飽きてきまして、今度は陸でこぐボートをを購入してしまいました。

スポーツボート(マット付)価格:9800円 楽天で、ですけどね。

負荷最低で15分ぐらいしかこげません。筋肉痛になってます。

でも、けっこう楽しかったりして バイクと併用します。

 

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2006年4月29日 (土)

発電バイク

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会場の一角に、前から関心があった発電するバイクがありまして。これで発電してジューサーを動かしてバナナジュースを作っているわけです。エアロバイクで日ごろ鍛えた成果がでましたね

これ、手作りでかなりお金がかかっているそうです。安く市販されたら買うのにな。

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アースデイ富山2006

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こんなイベントです

このくたくた感がたまらんですね。すごい人出でした。

いつもの「ふぉるくろーれ」さんで、いつものフェアトレード絵葉書買いました。娘はインドの小さなオカリナを買いました。

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2006年4月27日 (木)

無量寿とは常住のことだった

先回の同朋会では無量寿をもうひとつうまく説明できませんでした。というか無量寿=慈悲、無量光=智慧の出典どこなんだろう? 無量寿を「えんえんと連なる無数の命」とか「いのちそのもの」とか言う人がいるけど、これも出典はどこなんだ? 安心決定鈔? とかいろいろ考えてて。ふっと、そういえば真仏土巻ってどうなってたっけ? で、「読み解く」親鸞の教行信証を読み解く〈3〉証・真仏土巻―浄土教は仏教であるか否かもパラパラとめくってみたら

「真仏土巻は寿命無量の成就について冷淡である」との私の見解に対して、原稿の下読みを依頼した友人から、「寿命無量の成就は『涅槃経』に展開されているのではないか」との指摘を受けました。たしかにそのように考えられる要素がありますので、ここに書き添えておきます。

おおう、そういうことかー。真仏土巻の涅槃経引文は、無常なる世においてなぜ常なるものがあるように釈尊は説いたのよみたいな議論が展開されているのだが、これを親鸞は弥陀の寿命無量を説明するのにつかっているんだな!

ということで、いきなりこのあたりが、かなりスッキリしたことだった

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2006年4月26日 (水)

第一願、第十七願

ってもう、明日になってしまったよ。なんでこう、時間ってすすんでいくかな。

基本的に法蔵菩薩の物語をじっくりと説明することをメインとする。

で、四十八願のところで第一願、三悪趣をとりあげる。地獄とは戦争であり、餓鬼とは貧困であり、畜生とは尊厳をうばわれること。具体的なイメージをもってもらう。抽象的、文学的説明では通じない。足に地がついた話をしないと。先回の反省。

「重誓妙声聞十方」は、厳密には第十七願ではない。重誓偈の「名声聞十方」。このあたり、「称」と「聞」の関係については混乱しそうなんで、次回に送ることにしよう。

いつもいつも、いっぱいいっぱいですよ。

なんとかしてください

 

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2006年4月25日 (火)

同朋の会レジメ

テキストなしで正信偈を読むの2回目。以前に作った唯信鈔の私訳を使うことにする。


 

 

聖覚「唯信鈔」をてがかりに

 

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所

そもそも名号をとなうるは、なにのゆえに、かの仏の本願にかなうとはいうぞというに、そのことのおこりは、阿弥陀如来いまだ仏になりたまわざりしむかし、法蔵比丘ともうしき。

そもそも名号(南無阿弥陀仏)を称えるのは、なぜ、阿弥陀仏の本願に適っているかを説明しよう。事の起こりは、阿弥陀如来がまだ悟りを得てしていないころ、修行僧であって法蔵という名前だった。

そのときに、仏ましましき。彼が、先輩の仏に出会った。 

世自在王仏ともうしき。世自在王仏といわれた。

法蔵比丘すでに菩提心をおこして、清浄の国土をしめて、衆生を利益せんとおぼして、仏のみもとへまいりてもうしたまわく、「われすでに菩提心をおこして、清浄の仏国をもうけんとおもう。

修行僧法蔵はあらゆる人々を救いたいという心をおこし、清らかな国土を建設し、民を慈しもうと思っていた。そこで、世自在王仏のもとへ参上して申し上げた。「私は人々を救いたいのです。よって清らかな国土を建設しようと思います。

ねがわくは、仏、わがために、ひろく仏国を荘厳する無量の妙行をおしえたまえ」と。

お願いします、世自在王仏、わたしのために、開かれた国を形づくっていく限りなく素敵な仕事を詳しくおしえてください」と。

観見諸仏浄土因 国土人天之善悪

建立無上殊勝願 超発希有大弘誓

そのときに、世自在王仏、二百一十億の諸仏の浄土の人天の善悪、国土の麁妙をことごとくこれをとき、ことごとくこれを現じたまいき。

そこで、世自在王仏は、おなじことをやった先人たちによる無数のパターンの浄土で民たちがどうなっているのか、国土がどうなっているのかを説き、ことごとくこれらを目の前に出現してみせた。

法蔵比丘これをきき、これをみて、悪をえらびて善をとり、麁をすてて妙をねがう。

法蔵はこれを聞き、これを見て、わるいところを捨ててよいところ採用し、欠点を捨てて長所を集めようとした。

たとえば、三悪道ある国土をば、これをえらびてとらず。

たとえば、苦悩に満ちた厭うべきものを抱えた国土は、これを捨てて取らなかった。

三悪道なき世界をば、これをねがいてすなわちとる。それがない世界を願い、選択した。

(第一願  たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。)

自余の願も、これになずらえてこころをうべし。

そのほかの願も、これに準じて選ばれたと思ってほしい。

このゆえに、二百一十億の諸仏の浄土の中よりすぐれたることをえらびとりて、極楽世界を建立したまえり。

こうして、数限りない先人たちの浄土の中から優れたところを選び取って、極楽の世界を建設された。

たとえば、やなぎのえだに、さくらのはなをさかせ、ふたみのうらに、きよみがせきをならべたらんがごとし。

それを例えて言うならば、柳の枝に、桜の花を咲かせたようなもの。景観の素晴らしさで有名な三重県の二見浦に、これまた有名な静岡県の清見が関を並べてみせたようなものだ。

五劫思惟之摂受 重願妙声聞十方

これをえらぶこと一期の案にあらず。これらを選ぶ思索に費やした時間は計り知れない。

五劫のあいだ思惟したまえり。とてつもなく長い時間、熟考されたのである。

かくのごとく、微妙厳浄の国土をもうけんと願じて、かさねて思惟したまわく、国土をもうくることは、衆生をみちびかんがためなり。

このようにして、深遠で荘厳で清浄である国土を建設しようと願い、繰り返し思索されたが、そもそも建設の目的は、悩める人々を導き招くためだった。

国土たえなりというとも、衆生うまれがたくは、大悲大願の意趣にたがいなんとす。

いくら国がすばらしくても、なかなかそこへいけないのでは、あらゆる人を慈しみ救おうとする仏の願いから外れてしまう。

これによりて、往生極楽の別因をさだめんとするに、一切の行みなたやすからず。

こう考えて、極楽へ往生するための方法を慎重に決めることにしたが、修行というものはおしなべて容易ではない。

孝養父母をとらんとすれば、不孝のものはうまるべからず。

親孝行を行にすれば、親孝行でない人はいけなくなる。

読誦大乗をもちいんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。

経を読むことにすれば、素養がないものは望みがなくなる。

布施・持戒を因とさだめんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。

施しの行・戒を保つことにすれば、けちな人や戒が守れない人は漏れてしまう。

忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐいはすてられぬべし。

我慢とか努力を認めようということになれば、おこりんぼとかサボり魔は捨てられてしまうだろう。

余の一切の行、みなまた、かくのごとし。なにをきめても、みんな、こういうことになってしまうのだ。

これによりて、一切の善悪の凡夫、ひとしくうまれ、ともにねがわしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなえんを、往生極楽の別因とせんと、五劫のあいだふかくこのことを思惟しおわりて、まず第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんという願をおこしたまえり。

こうして、善い人も悪い人もあらゆる人間たちが、平等に生まれるような、同じ世界を共に願わせようとして、ただ「阿弥陀」という三字の名前をとなえるということを、極楽に往生する大切な手だてにしようと、長く深い思索の末に考えぬいて、さっそく十七番目に、あらゆる仏たちに自分の名前をほめたたえてほしいという願いを起こされた。

(第十七願  たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。)

この願、ふかくこれをこころうべし。この願のいわれを、深く受け止めてほしい。

名号をもって、あまねく衆生をみちびかんとおぼしめすがゆえに、かつがつ名号をほめられんとちかいたまえるなり。

自分の名前を使って、あらゆる人々を導きたいと思われたから、とりあえず名前を讃えてほしいという誓いをたてられたのである。

しからずは、仏の御こころに名誉をねがうべからず。

であるから、仏は名誉のようなものを欲しがっているのではない。

諸仏にほめられて、なにの要かあらん。

そうでなければ他の仏たちにほめてもらう、必要などない。

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2006年4月24日 (月)

華の会

 会場の入善から、帰ってきました。

正信偈のこころ 限りなきいのちの詩 フェアトレードチョコの紹介をしてから、今回はテキスト「正信偈のこころ」の内容を忠実に追いました。戸次さんの浄土は死後の世界ではないという主張に対して、「浄土とは願いにもとづく世界であり、死後のイメージをも含む広がりがある」というわたしの意見を申しました。そして、戸次さんが浄土として西牟礼道子「苦海浄土」を示されたのに応じて、私は「しんらんさまはなつかしい」の世界をとりあげてお話しを終えました。

 出席者からは、おつれあいに「浄土ってどこにあるの?」とたずねたら「心の中にある」と言われてよく分からなかったとか、お子さんから浄土とは何かという質問をされて答えたところが「けっきょく迷信なんだね」と言われてしまったといった問題提起があり、かなりマジメな座談会となりました。

 失礼ながら、若坊守さんたちをすこしナメていたのですが、テーマがテーマだったからでしょう、真剣勝負をしたという感じです。終わりに市民学会総会と写真展のお誘いをして終了 疲れた

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2006年4月22日 (土)

次の課題

月曜日 13組若坊守学習会「華の会」 テキストは戸次公正「正信偈のこころ」(法蔵館)

もう三年目に入りました。今回は曇鸞章の後半、還相回向からはじまって、浄土とはなにかを石牟礼道子「苦界浄土」で論じるところです。

あと材料としては、フェアトレードのチョコレートとハンセン病市民学会総会、写真展のチラシ。

もりだくさん おなか壊しそうですな。。。

あと、ついに目標のBMI22 62.5㌔に到達したぜ

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2006年4月21日 (金)

イノセンスの解体

寒かった。でっかい雹が降りました。

今日はかみさんと「組 親鸞聖人講座」に行きました。講師は辻俊明さん。テキストは「法語から読む親鸞聖人」。昔から存じ上げている先輩で、気心も知れて、安心して聴けるという感じでした。

保護司の研修会で心理学の先生からお聞きされたという「イノセンスの解体」というお話しが興味深かった。innocenceというと無垢と訳されていますが、「根源的受動性」として、みずからを無責任、無罪とする態度であると。現実を受け止め、受け入れることによってそれを解体し、被害者意識を乗り越える。それを宿業・業縁の問題と重ねて展開されました。
現代「子ども」暴力論 ネットで調べるとネタは←のようです。

座談会の司会をしました。実質、質疑応答でしたが、なかなかいろんな話しが出ました。

それにしても寒かった。一日、体調がすぐれませんでした。

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2006年4月20日 (木)

春の味覚♪

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 なんだか、また寒くなっちゃいましたネ。

 かみさんが児童連盟の講習会にいってくれたので(?)、わたしは三脚を立てて境内のタラの芽を摘みました。樹液が光っていて、なんというか、春の息吹のようなものを感じました。

 夕食で天ぷらにしてもらい、塩でいただいたら、もう最高! 苦味も青臭さもなく、味らしいものはないけれど、なにかほんわか美味しいんですよ、タラの芽って。

 お酒がすすんでしまいました

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2006年4月19日 (水)

同朋の会 案内状

eb86359d.JPG今度は法蔵菩薩の物語に挑戦でし

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2006年4月18日 (火)

行き着いた先

午前、住職修習などの書類を提出してきてしまいました。とうとう、年貢の納め時ですなぁ

組同朋の会の本番まで、悩みに悩んで、ふっとこの本に出てきた歎異抄第四章の解釈を思い出し、読んでみました。歎異抄をよむ 本当の慈悲とはなにかという捉え方です。


親鸞が聖道門の慈悲として言っている、人をかわいく思い、いたわる、気の毒だと思い、かわいそうだと思う、こんなことでは決してその人を最後まで救い切ることは出きないのだと。何も無意味とは私は思わない。親鸞もおそらく無意味だとは思っていないと思います。彼も教化活動をしたわけですから、人とのつながりはそういうことを通してきずいていったとは思いますけれども、それでは最後まで助け切ることはできない。やっぱり本当に親鸞にとって相手を救うこととは、自分は往生すべき人間なんだという自覚を持って、かけがえのない存在なんだという自覚を持って、自信を持って力強く生きていく道を親鸞は示したわけですね。親鸞にとっては死んだ後に浄土に生まれるかどうかというのが問題ではなくて、浄土に生まれる存在なんだよと、正定聚なんだよという自覚が人間としての自覚です。人間としての誇りですね。これを親鸞が植えつけていった。植えつけていったというのは親鸞は思っていないかもしれませんが、阿弥陀仏の力でそうなったというでしょけれども、親鸞は教化活動をしてそれをしていくーーこれが親鸞が進んでいく救いの道だと。


 かなり前に読んだ本でしたが、正定聚の取り上げ方とかピッタリ来ました。河田先生はいいなぁ。前は響いてこなかった本が、こうして輝いてみえてくるってあるんだなぁ。この問題も取り上げて、本日、話をしました。宣伝もかねてチラシを配り、市民学会総会や写真展にも触れました。

 座談会は、久々に十分な時間があって、様々な発言がでました。はじめて発言してくださった方もいたなぁ。とても面白かった。
 とにかく、終わりました。悩んだ分だけ学んだ気もします。
 辛かったけど、おきらくにもうホッとしています。

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総会打ち合わせなど

昨夜は、ネットワークで総会の打ち合わせ。それぞれのバラバラな思いが交錯し、それでも一つの形になりつつある。そのなかで、オレは自分の立ち位置にに悩み、それ以前にどこに立っているのかもわからずに、焦りつつ呆然としていた。帰ってから、組織にとらわれることなく、一人としても、動いてみようと反省した。

今日は、いよいよ苦闘の組同朋会。千部読誦と正定聚の組み合わせには、これまでになく悩まされている。マジで、だれかにSOSの電話でもしたくなった。

ふっと気がついたのは、正定聚がでてくる法語として御消息第二通が取り上げられているということだ。ここは正定聚の内容として「不退の位」「等正覚」、そして「補処の弥勒」まで述べられている。これだけの分量の文章の中で、還相回向まで一気にいっちゃってるということだ!

正定聚というのはゴールだ、みたいな意識でこりかたまっていた。正定聚は滅度に至る、出発点なんだよな。

ここから突破できるかもしれない。「宗祖親鸞聖人」は一筋縄ではいかない

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2006年4月17日 (月)

今朝、夢をみた。10年前、能登教区の駐在教導をやっていた頃の夢。上司とうまくいかなくて、阻害されて耐えている夢だった。

昨日、現実と理想のハザマで悩んでる若者のことを書いた。他人事のように書いたが、心の奥底で、10年前の自分のこととダブらせていたようだ。いまも、そう変わっていない気がする。

「神の子たち」や「リトルバーズ」をみて、なにか自分もしなければと思う。ネットでいろいろ情報を集めてみるが、どうしたらいいのか手詰まりになる。それが、手紙や便箋などのフェアトレード商品を購入して使ってみると、焦りがほんの少しやわらぐ。それくらいの、小さな自分。

ハンセン病についても、組織の中で動いていくなかで、矛盾が見えたり、他人や自分の功利心が見えたり、心が萎えたり折れそうになったりもする。実際、ネットワーク設立の二年目、家族につぎつぎと苦難が訪れて、活動にはほとんど参加しなかったことを思い出した。気力が出なかった。あの頃は、オレは役職でこの問題に関わっているんじゃないか、心の奥底ではイヤなんじゃないかという意識にも悩まされていたな。

確かに、オレは菩薩なんかじゃないよ。凡夫そのもの。しかし、それでも、こうして復帰したのはなぜだったろうか。思い出せない。

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2006年4月16日 (日)

正定聚に住す

また18日の組同朋会が近づいてきた。テキスト「宗祖親鸞聖人」第八章(二)「正定聚に住す」。
あいかわらず、佐貫で浄土三部経千部読誦の行をやめられたエピソードに悩まされている。

たわごとにてもなし。臥して二日と申す日より、『大経』を読む事、ひまもなし。たまたま目をふさげば、経の文字は一字も残らず、きららかに、つぶさに見ゆる也。さて、これこそ心得ぬ事なれ。念仏の信心より外には、何事か心にかかるべきと思いて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを、これは何事ぞ、自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや、思いかえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところのありけるや。人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思いなおして後は、経読むことは止りぬ。(恵信尼文書)


衆生利益のためにとつづけられた三部経読誦を宗祖が思い断たれたとき、そのとき宗祖は、苦しみのなかで倒れていく人々の苦しみから目をそらしてしまわれたのでは、けっしてないのです。それどころか、逆に、衆生利益のために三部経読誦を思い断たれたとき、そのときはじめて、本当に、その人々のすがたが、その人々の苦しみが見えてきたのではないかと思います。人々のすがたが本当に見えたとき、同時に、その人々に対する自分のいたわりや、思いのすえとおらぬこと、何一つ本当には為しえぬ自分が見えてきたのだと思います。それは、なまはんかな見え方ではなく、とことん見えてきたのでしょう。すくなくともとことん見えてくるまで、宗祖は十七年間もの長い年月、自分への厳しい問いを持ちつづけておられたのです。場当たりの、始終なき聖道自力の慈悲に自分をごまかしてしまうことなしに、現実を直視してゆかれたのです。(「宗祖聖人親鸞」宮城しずか)

ネットワークで前面に立つ活動をしていた若者と、今回の旅でご一緒した。懇親会の席で彼女が「ネットワークを辞めたい」と言い出しておどろいた。ハンセン病に取り組むという発表をしながらも、思うようなことができないことに悩んでいた。社会人になっていくなかで、自分の立ち位置とか無力さとか欺瞞が見えてきたようだった。この旅をきっかけにしてもう一度、関わるとは言ってくれた。
オレなんかは歳くってる分、そのあたり、ごまかしてる。宮城先生の文を読んで、彼女を思い出した。

「正定聚」とは、大衆の中で現実を直視していく立ち位置じゃないかと、考えたり、している。

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2006年4月15日 (土)

全生園へいってきました

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12日 「真宗子ども講座」スタッフ事前研修会2回目

講師は東京教区の三橋さん 初歩とはいえ、カウンセリング実習であったのには意表を突かれた。
お話しを聞きながら、前日に読んだマインドコントロールについての本の内容を思い出す。自らを無にして他者の言葉に耳を傾ける、いわば、カウンセリング的な生き方みたいなことあるんだろうな。
子ども会や同朋会でカウンセリングの技術は確かに役に立つと思う。でも、自分の意見を言わなくてはならない場面もあるはず。どういう場面でこれを使うのかが、問題じゃないか。

講師との懇親会。そのあと、委員長とあおさんと飲んで、松川べりの夜桜を楽しむ。花がやたら多すぎて気持ち悪いくらい。教務所の前の温泉のあるホテルで一泊。

13日 総勢16名、バスで東京へ向かう。だいぶ散っていたが桜が綺麗だった。真宗会館のまえの枝垂桜が満開。真宗報恩会の方々と交流。夜はたこやきパーティ。一人一人と出会うということがいかに大切かということを痛感した夜だった。第一面会人宿泊所で泊。

14日 園内見学。園内は緑にあふれ、とても美しい場所だった。武蔵野を自ら切り開かれた入園者の方々の歴史がある。この場所を「人権の森」として後世に残していきたいというお気持ちに荘厳なものを感じた。すっかり打ち解けた報恩会の方々、仲立ちをしてくれた酒井さんにお別れして帰富。

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2006年4月14日 (金)

多磨全生園9

d50792ef.JPG真宗報恩会の方々とお別れ ありがとうございました

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多磨全生園8

460cb8f0.JPG納骨堂の由来

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多磨全生園6

656c6823.JPG納骨堂

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多磨全生園7

f70096a0.JPG桜と菜の花のコントラストが美しい

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多磨全生園5

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園を「人権の森」として後世に残したいという思いから、名前を記した植林がされている

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多磨全生園4

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お勤め

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多磨全生園3

eada6ac3.JPG真宗会館

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多磨全生園2

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洗濯場跡

1941年 新しいゴム長靴を要求した山井道太さんがここから草津の重監房に送られ、亡くなられた

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多磨全生園1

19773d7d.JPG全生園を囲んでいた柊

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2006年4月10日 (月)

0e1c04e6.jpg上の写真の全景

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2006年4月 9日 (日)

ここ二日の動向

7日 駅から教務所まで歩く 松川べりに桜がちらほら 城址公園 花見している連中を横目で読書に興じる まだ風が冷たかった

富山児童連盟会議 石川玄会長、がんばってはる

ハンセン病問題ふるさとネットワーク富山総会 市民学会総会に向けての連絡など 藤野豊先生の公開講座「ハンセン病問題の現状」 旧「南洋」の療養所などの問題についての報告 私の祖父が戦死したパラオ島の話が出た。遠い土地であっても、爺さんの死んだ場所ともなると興味が出る。

終了後、児連会長らと焼き鳥「秋吉」へ 久しぶりに豚足を食った。旨かった。組織論で話しの花が咲く。こういうくだらない下世話な話しは盛り上がる。

8日 子ども会 スゴイ荒れた天候でしたが、たいへんうまくいきました。私のこだわりは、お勤めの前に献燈献華を中尊前でこどもたちにやってもらうこと。なにもないところに、三具足をお飾りしてセレモニーがはじまる。そこに集まったみんなで作り上げる荘厳がすきなのよ。

後片付けして午後から魚津の山村へ半日月参り。帰ればどっと疲れが。

さあ今週は、13,14と多磨行きだぜ

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2006年4月 8日 (土)

子ども会歓迎会3

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記念撮影。このあと紙芝居で終了。

さあ、来月から、空元気でがんばろう

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子ども会歓迎会2

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お勤め

かなり雨が激しかったのですが、メンバーほぼ全員きてくれました。

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子ども会歓迎会1

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奉花

オレも年とったなぁ

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2006年4月 7日 (金)

不退転とは

昨夜は野々市にて十住毘婆沙論学習会、昨年以来、久しぶりの開催でした。

阿惟越致品の後半を読みました。こんな問答があります。

問いて曰く、すでに知りぬ、この法を得れば、これ阿惟越致なりと。阿惟越致に何の相貌か有りや。
答えて曰く、般若にすでに広く阿惟越致の相を説けり。若しは菩薩、凡夫地・声聞地・辟支仏地・仏地を観て、不二・不分別にして、疑悔あることなし。まさに知るべし、これ阿惟越致なり、と。

阿惟越致とは不退転のことですが、不退転の相というのは他者の修行の段階、あるいは生き方の違いを、疑ったり侮ったりすることなく見るのだということです。ということは、自分自身のことについても、どの段階にいるかという思いを離れてしまうんでしょう。

私は「不退転」というのは、もうこれでだいじょぶだ、ここまでやったんだからこれで退くことがないという安心感とか境地を示しているのだと思っていました。そうではないんですね。境地にしがみつくから、退転するという恐れが出てくる。それが、自分が学んだり得てきたものから解放される。オレはここまで積み重ねてきたんだぞという思いから、手を離してしまうというか。

まぁ、そうなると自分自身が不退転の位にあるかどうかという意識さえ、どうでもよくなるんじゃないでしょうか。そういうことを、本当の安心と言ってもいいのかな。

 差別から解放されるのが、仏の本質。
 さすが、「空」の大成者、龍樹だなぁと思いました。

次回は5月8日です。いよいよ易行品に入ると思います。近隣の方々、ぜひ御参加ください。

http://sun.ap.teacup.com/pastime/42.html

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2006年4月 5日 (水)

花に罪はなけれども

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060328-00000218-kyodo-int

さて、宗教は国家を超えられるか 近代日本の検証によると、本居宣長が桜を大和魂の象徴とし、彼の学風を慕う勤皇の志士たちが桜の散りぎわを武士道の究極のすがたと受け止めたということです。

この傾向は、明治維新後も衰えることはなかった。いやむしろ、近代天皇制国家の確立とともに、桜は国家とされ、帝国陸軍の記章ともなった。そして、天皇の「赤子」である軍人は、「皇国」のために、あたかも桜の花の散るように、いさぎよくその命を投げ出すことが求められたのである。

おりしも幕末に登場した新種のソメイヨシノが一気に全国に普及することによって、散る桜は日本人の心を示す花、それも昔々からそうであったように思い込まされてしまいました。

日本人が古くから愛してきた桜は、山桜のように、じっくりと愛でることのできる花見の桜であったということです。ああ、花見がしたい

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2006年4月 4日 (火)

組同和研修会

昨日は組の同和研修会に出席しました。

講師は元教研の柴田さん。病気から復帰されましたが、少し後遺症があるようです。テキストは「仏の名のもとに」 

阿弥陀仏は智慧と慈悲の仏である。阿弥陀仏に帰命するということは、智慧と慈悲を大切にするという表明である。智慧は光であり無碍であり自由。慈悲はあらゆる衆生を救うという平等。阿弥陀仏に帰依するというのは自由と平等を大切にすることである。フランス革命も仏教もまことの世界を求め、自由と平等をそこに見出した。

先日私は同朋会で、阿弥陀とは光明無量であり寿命無量である、末法の極東に住む我々の側にいてくれる仏であるという話しをしたのですが、どうも薄っぺらな感じがしていました。柴田さんのお話を聞いて、観念で話していたなと反省しました。

時間がなくなって予告だけされたのですが、テキストp29を二種深信でお話しされるということでした。そこから推測すると、機の深信とは差別されているという事実であり、法の深信は被差別であるからこそ救いを求め、弥陀はそれを与えるという展開じゃないかと。次回が楽しみ。

富山の片田舎で、こんなワクワク冒険的な真宗が語られていますよ。

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2006年4月 2日 (日)

誕生会

下の記事にコメントして下さった方々、御礼申し上げます。へなちょこなもので、それぞれのお言葉にかなりびびっております。
今後とも、手探りで、のんびりと、がんばらせていただきますです。

2f1f888e.jpg今日は玉永寺が組の誕生会の会場となりまして、にぎやかなことでした。こうしてみますと、浄土荘厳だそうでお稚児さんってのもいいもんですな。

終了後、慰労もかねて家族とともに近所の「珈琲哲学」というお店に行ってきました。隣の席で爺さん二人連れが、コーヒーを楽しみながらケーキをつつき、四方山話をしてました。なかなか、渋かった

ああ、体重の方はここのところなんとか63㎏台をキープできています。BMI22が62.5㎏なので、あと1㎏落とせたらベストということです。こちらのほうも、なんとかのんびりと、がんばっております。

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2006年4月 1日 (土)

住職になるにあたって

 5月末の住職修習に向けて、書類などを揃え始めています。

 私の希望で、同時に参拝団を募りました。いまのところ25人です。
 実は、この参拝団については両親とかなり激論しました。私としては、住職としての出発になるべく多くのご門徒の方に立ち会っていただきたいということを主張したのですが、両親から「お前のために人を募るのはおかしい」と反対され、結局、メインは旅行であるという募集の仕方に落ち着きました。

 先日、ある先生のお話として、ごじんさんから以下のようなことをお聞きしました。
 「寺は住職のためにあるのではなく、門徒のためにあるのでもない。寺は念仏のために、そこにあるのだ」
 これを聞いて、こういう募集の仕方でよかったんだなと。住職になればオレ中心に寺は回るはずだというような意識が、私にもやっぱりあるんだなと反省しました。カリスマになりたいんですね。
 しかし、ならばどのように住職交代を進めたらよいのか分からなくなってしまいました。具体的に言うと、継承式をやるのかやらないのか、やるならどういう内容にしたらよいのか。記念品についても同様。この機会に、寺に足を運んだことがあまりない方にもご縁がもてないかなということも思いますし。

 基本的に住職ってなんなのかってことです。先輩方、お同行のみなさん、アドバイスください。考え中です。

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